金曜の夜。 グラスのぶつかる軽やかな音、友人たちの甲高い笑い声。テーブルの上には宝石みたいにきらめくフルーツのカクテルが並び、お気に入りのシルクのワンピースが私の肌を気持ちよく滑り落ちていく。
スマートフォンのカメラロールは、完璧な笑顔の私で埋め尽くされていく。 撮ったばかりの写真の中から、一番「幸せ」に見えるものを厳選して、慣れた手つきでフィルターをかける。
『#女子会 #最高の週末 #いつもありがとう』
無意味な記号の羅列に、祈るような気持ちでハッシュタグを並べれば、あっという間に「充実している私」の出来上がりだ。友人たちも、SNSの向こうの誰もが、私のことを「幸せな女」だと思っている。 ええ、そう。それで、いいのだ。
「じゃあ、またね!」
店の前で手を振り、一人乗り込んだタクシーのドアが、パタン、と乾いた音を立てて閉まる。さっきまでの喧騒が嘘のような、耳が痛いほどの静寂。 ひんやりとした窓ガラスに、そっと額を押し当てる。ネオンの光が意味もなく流れては消えていく。
笑いすぎて少し痛む頬とは裏腹に、心の真ん中が、どうしようもなく空っぽだった。 まるで美しいギフトボックスの中身だけが誰かにごっそり盗まれてしまったみたいに。
胸にぽっかりと空いた冷たい「穴」の存在に、私はずっと前から気づいていた。
…この記事は、そんな私の告白。
愛なんて信じられないと嘯いて、世間が「間違っている」と指をさす、既婚者である「彼」の腕の中へ――。 つかの間の温もりを求めにいった、私の、愚かで、あまりにも正直な物語。
「完璧な私」という息苦しい鎧
私の告白と書いたけれど、そもそも、なぜ私はこんなにも「穴」を抱えてしまったのだろう。 答えはたぶん単純だ。 私が、ずっと「完璧な私」であろうとし続けたからだ。
営業成績は、常に部署でトップクラス。後輩の面倒見も良いと評判で、上司からの信頼も厚い。会議では誰よりも早く的確な意見を口にする。「すごいね」「頼りになる」。その言葉が、私の価値の全てだった。
プライベートだって手を抜かない。 週に二回はジムで汗を流し、部屋はいつでも人を呼べるように片付けてある。インスタグラムには、自分で作った栄養バランスの取れた食事や、新しく買った北欧のインテリアが美しいフィルター越しに並んでいる。
そう。私は、いつだって「完璧な私」でいたかったのだ。 弱さを見せたら負けだと思っていた。泣きたい夜ほどマスカラが滲まないように、ぐっと奥歯を噛み締めて笑ってみせた。
でも、その分厚い鎧は、いつしか私自身を内側から締め付け始めていた。 完璧であればあるほど、誰も私の中に踏み込んでこない。悩み相談に乗ることはあっても、自分の悩みを打ち明ける相手は、どこにもいなかった。
友人たちは、悪気なく言うのだ。 「あなたは何でも一人でできて、すごいよね」と。
その言葉は、褒め言葉の形をした鋭いナイフだった。 「助けて」と、どう言えばいいのか、私にはもう分からなかった。鎧の着方を覚えすぎたせいで、脱ぎ方をとっくの昔に忘れてしまっていた。
彼がくれたのは「何者でもない私」でいられる場所
彼と出会ったのは、仕事の打ち合わせだった。 彼は、私の鎧に最初から気づいていたのかもしれない。他の男たちのように、私の肩書きや実績にやたらと感心したり、逆に張り合ってきたりすることもなく、ただ静かに少しだけ困ったような顔で、私の話を聞いていた。
決定的だったのは、ある夜のことだ。 大きなプロジェクトのトラブルで心身ともに疲れ果てて、私が珍しく誰に言うでもなく「…もう、全部投げ出したい」と呟いた時。 彼は驚きもせず、咎めもせず、ただ「お疲れ様」とだけ言って自動販売機の温かいお茶を、そっと私のデスクに置いてくれた。
そのお茶は、ただのお茶ではなかった。 それは、「頑張れ」でも「君ならできる」でもない「もう頑張らなくていい」という、私が生まれて初めて受け取る優しい許可証のようだった。
だから彼との逢瀬は恋愛の駆け引きの場ではなかった。 煌びやかなレストランではなく、会社の近くの薄暗い喫茶店の片隅で会った。お互いの週末のことは、決して聞かないのがルールだった。 そこは私が分厚い鎧を脱ぎ捨て、仕事の愚痴をこぼし、ただ疲れて少しだけ人生に意地悪になった、「何者でもない私」でいられる、唯一の聖域だった。
彼には、守るべき家庭があった。 だから、私に「恋人」や「妻」という役割を求めなかった。 皮肉なことに、彼のその不誠実さが、私にとっては誰よりも誠実に感じられたのだ。
それは「愛」ではなかった。でも、「温もり」だった。
この関係を、世間で言うところの「愛」や「恋愛」だと、私は一度も思ったことがない。
彼が「いつか離婚する」と言ったことはなかったし、私もそれを望んではいなかった。燃えるような情熱や四六時中お互いを求め合うような激しさも、そこにはなかった。 彼の家庭のことを考えると胸の奥がチクリと痛んだけれど、それは嫉妬とは少し違った。遠い国の出来事のように現実感がないだけだった。
ただ、そこには確かな「温もり」があった。
私の胸にぽっかりと空いた、冷たい風が吹き込む「穴」。 その隙間を彼の存在が、ぴたりと、一時的に埋めてくれる。それだけだった。
彼は、私の人生というクローゼットに足りなかった最後のワンピースではなかった。 彼は、ただ凍える私の肩にそっと誰かが掛けてくれた、借り物のブランケットのような存在だったのかもしれない。
偽物だと分かっていた。 借り物だから、いつかは返さなければならないことも。
でも、それでもよかった。 凍え死ぬよりは、ずっとマシだったから。
満たされる孤独と深まる罪悪感
彼の腕の中にいる時間だけ、私の胸の「穴」は確かに塞がれていた。 あれほど私を苛んでいた孤独の風はぴたりと止み、そこには穏やかな凪が訪れる。私はその凪に溺れるように身を委ねた。
でも、その穴が温もりで満たされるほどに、心の別の場所からドロリとした重たい何かが湧き出してくることにも、私は気づき始めていた。 人々が、それを「罪悪感」と呼ぶことを、私は知っていた。
彼が「じゃあ、また」と私の部屋のドアを静かに閉めた瞬間から、それは始まるのだ。 彼の温もりがまだ生々しく残るシーツの中で私は一人、彼の帰るべき「本当の場所」を想像する。今頃、彼はどんな顔で「ただいま」と言うのだろう。彼の子供は、どんな笑顔で彼に駆け寄るのだろう。
彼の奥さんのSNSを探しては自己嫌悪に陥る夜があった。 そこに映る、幸せそうな家族の写真。私には決して入ることのでこない、完璧な円。 私は、その円に静かに、しかし確実に波紋を広げる石を投げ込んでいるのだ。
借り物のブランケットは、たしかに温かい。 でも、そのブランケットが本来誰かのものであることを知っているから心は少しも休まらない。
温まれば温まるほど、罪悪感で凍えていく。 そんな矛盾の中で私は静かに溺れそうになっていた。
【まとめ】同じ「穴」を抱える、あなたへ。
ここまでが、私の告白のすべて。
この物語に、ハッピーエンドはありません。 もちろん、誰かに向けた教訓めいたものも、何も。
ただ、もし、これを読んでいるあなたも、私と同じように、胸にぽっかりと空いた「穴」を抱えていて。 「愛なんていらない」と強がりながら、夜ごと、その穴の暗闇に怯えているのなら。
そんなあなたにだけ、この声が届けばいい、と。 そう思っただけなのです。
彼がくれた温もりは本物だったのだろうか。 私がしたことは本当に間違いだったのだろうか。 今も私には分かりません。
でも一つだけ確かなことがある。 私たちは、ただ寂しかったのだ。
胸に空いたこの「穴」を私たちは、本当は何で埋めてほしかったのだろう。
タクシーの窓の外、日曜の夜は、今日も静かに更けていく。
