月曜の朝。 ローテーブルの上で、スマートフォンの青白い光がまた点滅した。開くまでもない。きっと、マッチングアプリの新しい「いいね」か、当たり障りのないメッセージだろう。
名前と、年齢と、年収と。 スペックという名の装備品を値踏みし合う、あの作業。当たり障りのない定型文を交換し、週末の予定をすり合わせ、レストランの評価を検索する。 まるで、攻略本をなぞるだけの、退屈なロールプレイングゲーム。 もう、うんざりだった。
それに比べて、彼との時間は、なんてシンプルで「楽」なのだろう。
私たちの間には、たった一つだけ、シンプルなルールブックがあった。 「本気にならないこと」 それさえ守れば、セーブもロードも必要ない。面倒なレベル上げも、クエストもない。ただ、会いたい時に会って、笑い合うだけの、完璧な息抜き。
これは恋愛なんかじゃない。 恋愛の形をした、刹那的なゲームだ。
そう、私は完璧に割り切っていた。
…少なくとも、昨日の夜、このゲームに、ありえないバグが発生するまでは。

婚活アプリの無限ループに私は疲弊していた
ありえないバグ、と書いたけれど。 そもそも、なぜ私がこんなにも歪な「ゲーム」に没頭するようになったのか。 その理由を話すには、少しだけ時間を巻き戻さなければならない。
最初は、期待していたのだ。 画面を数回タップするだけで、運命の相手に出会えるかもしれない、と。現代の魔法だと、本気で信じていた時期もあった。 しかし、そこに広がっていたのは、巨大な人間の市場だった。
まず、自分という人間を、数十文字のプロフィールと、奇跡的に撮れた数枚の写真で「商品」として陳列しなければならない。少しだけ年収は盛り、苦手な料理も「練習中です」と微笑む。そうやって、嘘と願望で塗り固めたキャラクターを作り上げるのだ。
そこから始まるのは、無数の男たちとの、中身のないメッセージの応酬。 「はじめまして」「趣味は何ですか」「休日は何を?」。誰もが同じ質問をし、誰もが同じような答えを返す。心が、少しも動かない。
運良く食事の約束にこぎつけても、それは面接と何が違うのだろう。 相手のスペックを再確認し、自分の市場価値をプレゼンし、減点されないように当たり障りのない笑顔を浮かべる。食事が終わる頃には、楽しかった記憶ではなく、ただの疲労感だけが残る。
そして、ある日突然、何の理由もなく、彼はゲームからログアウトする。 ゴースティング、というらしい。 もう、傷つくことにも、慣れてしまった。
恋愛をするたびに、自分という存在が、どんどん安っぽくなっていく気がした。 「もう、誰かのために自分を良く見せるのはやめよう」 そう誓った夜に、私は、彼と出会ったのだ。
彼は最高の「ゲーム・パートナー」だった
そんな、退屈で、傷つくだけのロールプレイングゲームにうんざりしていた私の前に、彼は現れた。 彼は、私が今までプレイしてきたどのゲームの登場人物とも、全く違っていた。
まず、彼とのゲームには「結婚」という、最終目的(ゴール)が設定されていない。 だから、未来の約束も、親への挨拶も、面倒なクエストは一切発生しない。ただ、今、この瞬間が楽しいかどうか。それだけが、唯一のルールだった。
彼が夫であり父親である時間、つまり「週末」と「夜」は、私にとって決して連絡をしてはいけない、神聖なオフリミットエリアだった。そして皮肉なことに、その明確すぎる境界線こそが、私を安心させていた。 普通の恋愛のように「なんで会えないの?」と心を乱す必要がない。だって、会えない理由が最初からそこにあるのだから。深入りしすぎて、自分が傷つく心配もない。 このルールは、恋愛に疲れた私を守ってくれる、完璧な防壁のように思えた。
嫉妬や束縛といった、心を消耗させるだけの、無駄な感情のレベル上げも必要ない。 私たちは、ただ会っている時間だけを純粋に楽しむ、最高のプレイヤー同士だった。
そう。彼は、私の人生というメインストーリーには決して干渉してこない、都合のいいNPC(ノンプレイヤーキャラクター)のような存在。 彼と過ごす時間は、本編の合間の、楽しいけれど、ストーリーには影響しない、ボーナスステージのようなものだったのだ。
完璧なルール。完璧な距離感。完璧なパートナー。 私は、このゲームを、自分自身で完全にコントロールできていると、信じきっていた。
「好き」というルール違反のバグ
その完璧なルールの下で、私は無敵だった。 傷つくことも、心を乱されることもない。私は、このゲームの最強のプレイヤーだ。 そう、信じていた。
バグは、ある雨の夜に、静かに発生した。
私が、キャリアで初めてと言えるほどの、大きな失敗をした夜だった。プロジェクトの遅延。クライアントからの厳しい叱責。完璧だったはずの私の鎧に、初めて亀裂が入った日。 誰にも言えず一人オフィスで残業していると、珍しく彼から短いメッセージが来た。 「まだ会社か?」
オフリミットであるはずの「夜」に届いた、その短い問いかけ。 ルール違反だと分かっていながら、私はほとんど無意識に「もうダメかも」とだけ返していた。 すると数秒後。鳴らないはずのスマートフォンが彼の名前を映し出して震えた。
彼は電話の向こうで、仕事のアドバイスは何も言わなかった。 ただ私が支離滅裂に状況を話し、途中で言葉に詰まり静かに泣き出すのを、私が話したいこと全て話し終えるまで黙って聞いてくれた。 そして最後に、こう言ったのだ。 「お前は強いから大丈夫だ。でも、今夜はもう頑張るな」と。
電話が切れた後、私はデスクに突っ伏して声を殺して泣いた。 嬉しかったのか悲しかったのか、自分でももう分からなかった。
ただはっきりと、気づいてしまったのだ。 完璧だと思っていたゲームのシステムに取り返しのつかないバグが発生したことに。
「好き」
それは、この割り切ったゲームにおいて絶対にインストールしてはいけないはずの感情。 でも、それは外部から侵入したウイルスなんかじゃなかった。 ルール違反だと知りながら、彼からの電話に出てしまった私。彼の優しさに、みっともなく縋ってしまった私。
この不正なプログラムを組んでインストールしたのは他の誰でもない、私自身だったのだ。
ゲームの出口を失った私の誤算
自らインストールしてしまった「好き」という不正なプログラム。 それは、私のゲームを根底から蝕み始めた。
かつては私を安心させた「週末」と「夜」というオフリミットエリア。 それが今、鋭い棘を持つ壁となって私の前に立ちはだかる。 彼が家族と過ごしていると頭では分かっていても心が勝手に彼を探してしまう。スマートフォンの通知音に、いちいち期待してしまう自分がいる。かつては感じなかった嫉妬という名の熱が、じりじりと胸を焼いていく。
そして何より苦しいのが「本気にならない」というゲームを始めた時の自分自身との契約だった。
「もっと会いたい」 「声が聞きたい」
喉まで出かかったその言葉を、私は必死に飲み込むしかない。 だって、このゲームのルールを一方的に破っているのは私だけなのだから。彼は今も、あの頃と何も変わらない完璧なプレイヤーのままだ。
自分を守るために作ったはずの「割り切り」という名の鎧が、今、私を内側から締め付け傷つけている。 安全なゲームだと思っていた。出口はいつでも自分で選べるのだと。
それが、私のたった一つの致命的な誤算だった。
【まとめ】「都合のいい女」は、どちらだったのか
「割り切った関係」
それは、一見すると恋愛の面倒な部分を全て削ぎ落とした、現代を賢く生きるための処世術のように私たちには見えます。
でも、この物語を最後まで読んだ今なら分かるはずです。
「割り切り」とは、自分を守るための賢い鎧ではなかった。 それは自分の心を「この程度の価値です」と自ら値付けしてしまう、あまりにも危険な値札だったのかもしれない、と。
彼との関係を「都合のいいゲーム」だと信じていた彼女。 でも、本当に都合よく、傷つかずにゲームを続けられていたのは一体どちらだったのでしょうか。